高校3年時の成績は、打率.397、3本塁打、盗塁27。89年には足立、片平らと、1Aパイロッツに野球留学。入団当初は内野手として登録、当時の背番号は37。初回先頭打者本塁打は通算27本と歴代5位。99年のシーズン初回先頭打者本塁打は8本で歴代1位。広島一筋、今季で実働21年目を迎える。ちなみに最多は衣笠の23年、次いで大野の22年、緒方を含め広島で20年以上在籍した者は3人しか居ない。
90年に右ひざ骨折という重傷で全治2ヶ月、その後はなかなか芽が出ずに伸び悩んでいた。しかし95年にわずか101試合の出場ながら47個の盗塁で初タイトルを獲得。そして翌年、翌々年と3年連続盗塁王を獲得し、リーグ2人目の記録を達成。球界を代表する俊足選手に成長した。99年には1番打者ながら3割36本塁打を記録し、最強屈指の打者になる。
しかし00年からは右足首痛の再発に振り回され、01年10月には右足関節骨棘切除の手術を行った。02年は、3年ぶり規定打席を満たして3割、25本塁打をマーク。殊勲打がチーム最多の27と大事な所での一打が光った。前田と共に、怪我からの復帰だった。
03年は最終戦で3安打しジャスト3割。惜しくも本塁打は29本と大台の30本には届かなかったが、本塁打、打点でチーム2冠となり、野手では最高の貢献度を残す。
04年は春季キャンプから腰の痛みがひかず、93年以来11年ぶりの開幕2軍となった。3年連続の3割には到達出来なかったが、先頭打者アーチ6本を含む26本塁打。腰痛の悩みを断ち切る為に、11月12日、広島県内の病院で「腰椎椎間板ヘルニア」の手術を行った。
05年、ヘルニアの手術から戦列復帰後の3月24日のオープン戦では左肩を打撲した。それでも4月1日開幕戦に間に合わせた。毎年スロースターターで、エンジンのかかりは遅かったが、開幕から好調を維持した。5月22日の横浜戦では、戸叶から左ほおに死球を受け「左眼窩(がんか)骨折で全治7日」と診断されるも、3日後には、薬を飲みながら代打で出場。不屈の闘志でグラウンドに立った。顔面死球の影響から、一時期打率が2割台に落ちたが、後半盛り返し2年ぶりの打率3割超えを果たした。4年連続20本塁打を達成。
春のキャンプ、オープン戦と順調な仕上がりを見せ、開幕戦を1番センターで迎えた。相変わらず4月は打率.241とスロースターターだが、2本の先頭打者本塁打を放つなど、存在感をアピール。しかし5月4日のヤクルト戦(神宮)で、五十嵐から死球を受け、右手薬指を骨折。2軍落ちを余儀なくされた。6月9日にウエスタンで実戦復帰したが、05年ヘルニア手術した腰に激痛が走った。再びリハビリに入り、1軍に昇格したのは6月27日と、予定より約2週間以上遅れてからだった。
昇格後、3試合代打を経て、センターで先発復帰するもそこから結果が出ず、スタメン落ちする事も増えた。先発した日に3安打を打っても、翌日に代打で起用されるなど、“センター”の座は失われた。シーズン終盤には、若手起用の方針に切り替わり、代打での出場となった。結局、81試合に出場し、打率.284、6本塁打に終わり、01年以来の二桁出場、一桁本塁打、規定打席にも届かなかった。まだやれる実力は十分に持っているが、故障以外でのレギュラー陥落は初めてだ。世代交代の波がすぐ近くまで来ている。
昨季9月には初めて一塁で先発したが「他のポジションを練習するつもりはない」と外野一本で勝負する。更に「06年後半のように控えにまわるようなら、自分のスタイルじゃないのでユニホームを脱ぐ」と“背水の陣”で今季に臨む考えを明かした。野手最年長の38歳で、毎年怪我とも戦っているが、相変わらず衰えない精神力と打撃力は素晴らしい。
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