中学では1年の時に投手を務めたが、高校の1年秋に、外野手に転向してレギュラーとなり、2年連続して3番センターとして夏の甲子園に出場した。高校通算31本塁打。日本IBM野洲に内定していたが、広島がドラフト6位で入札。1年目はアメリカに留学した。背番号は入団当初61、36、そして97年に6番に変更された。
左への流し打ちも上手く、長打力、走力もあり他球団へ行けば中核を打てる選手。左投手を苦にしない打撃も魅力。毎年コンスタントに100試合前後出場し、代打通算打率は.314を誇る。試合に出る日もあれば、そうでない日もある。その中で力を出し切っている。類まれな集中力が物語る。先発で使える実力はあるが、ここという場面で決定的な仕事が出来る代打の方が相手チームには脅威だ。体脂肪率は30歳を超えても9%台と、若々しい体形を維持している。
代打通算489打数154安打、打率.315。8本塁打、8サヨナラ打。
02年も代打で.366、出塁率.435と両リーグNo.1。03年は野村、ハーストの故障により、6月まで.349と高い打率を残し、驚異の3番打者として活躍。先発起用の増えたシーズンだったが、代打での打率は.389、出塁率.488と依然高く、共にリーグ2位を誇る。
04年は開幕から1割台に低迷した。6月11日、9回2死満塁で代打に立ち、1号グランドスラム。19日にはヤクルト五十嵐から154キロのストレートを打ちサヨナラ三塁打。これで浅井は波に乗った。後半の7月以降は4割以上の打率を残し、打率.284。代打成功率は.308。しかも得点圏打率は.361と脅威的な数字を残す。
05年、最下位に終わったチームと同様、浅井にとっても不本意な一年だった。出場80試合で、打率.265。本塁打も1軍デビューの93年以来12年ぶりとなる0本に終わった。故障が響いた。6月上旬のロッテ戦で第1、2戦に先発。ところが3戦目の朝起きてみると、右手首が痛みで動かなくなっていた。スライディングの時に、手首をつくクセがあり、無意識に痛めていた。痛め止めの注射を打ちながらの出場。シーズン終盤には左ひじ痛にも見舞われた。野村の一塁コンバートも少なからず影響を与えた。だが、そうした状況と成績に因果関係はないと、浅井は首を横に振った。代打成功率は、打率.250と過去5年間では最低の打率。
昨季は終盤での代打起用が以前より減少し、打率も1割台と低迷。4月30日の横浜戦(横浜)、代打での初安打を放った際には、不完全燃焼の日々を送っていた。5月6日の中日戦(広島)では、右足太ももを痛め、翌日に出場選手登録を抹消。復帰後も中々結果を出せず、6月末にはメニエル病を初めて発症し、体調管理に苦しみ抜いた。加えてブラウン監督が若返りの方針を打ち出したことから出番が減少した。そして浅井をチームの功労者と位置づける球団は、指導者の道に進むよう打診していた。本人は体力面、技術面にもまだできる自信はあったが、若手の為を思ってユニホームを脱ぐ覚悟を決めた。
10月16日中日戦(広島)、現役最後の代打は七回一死一塁。斉藤の140キロの速球を中前へ弾き返し、最高の形で締めくくった。鳴り止まない浅井コールの中、一塁ベース上でヘルメットを取り、駆けつけた1万6415人ものファンに深々と何度も頭を下げた。17年間のプロ野球生活で一度も規定打席に達する事も出来なかったが、代打としてチームには欠かせない存在となり、そしてファンに愛された。
打率.222は95年から1軍に定着するようになって以来、ワーストの成績。しかし引退年でも代打打率は30打数10安打と打率.333を残している。引退後は2軍打撃コーチに就任。
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