小1から野球を始め、父が設立し監督も努めるチームでプレー。父も元プロ野球選手でかつて南海ホークスに所属していた黒田一博。高校時代は西浦(元日本ハム)の控え投手だった。東都大学2部だった専修大に進学、1年秋から登板した。4年春に一部に昇格し、スピードガンの設置された神宮球場で初めて150キロをマークした。1部通算2シーズンで6勝4敗。
終盤になっても衰えない150キロを越す快速球とスライダー、フォークが武器。05年からシュートを習得、球速は直球とあまり変わらず、バットの芯を外すタイプの球で、安定感は更に増した。豪快に三振を取るタイプに見えるが、実は抜群の制球力を持っており、打たせて取る技術も併せ持つ。近年、先発タイプで平均145キロ以上を投げる投手は、セ・リーグにはいない。
01年、入団5年目にして初の2ケタ勝利を達成。長島前監督は関係者に「黒田はセ・リーグでNo1の右ピッチャー、上原より上」と言わしめた。01年オフ、雅代夫人と結婚し精神面でも安定。03年は出足不調だったが、後半で8連勝を挙げ自己最多の13勝。3年連続2ケタ勝利、自身初の200イニングにも到達。防御率も3位に入る。
04年2年連続で開幕投手を任されたが、まさかの逆転負け。思えばこれが苦難の始まりだった。山本監督は「エース=完投」とこだわり続けた。150キロを超えるストレートも簡単に打たれ、連打を浴びるケースが増えた。違和感を訴えたのは6月20日のヤクルト戦。27日に出場選手登録を外れ、「右肩関節滑膜炎」と診断された。再昇格後の8月3日、8回までの完封ペースが暗転し、目前にした9回に逆転された。降板したベンチで涙がこみあげた。リーグトップの7完投を挙げるも結局7勝止まりで、4年連続2ケタ勝利はならなかった。2桁被安打は10度、130球以上投げた試合は7度。過去5年でみても最多。よくこれで、右肩が壊れなかったものだ。
05年から動作解析の専門家・手塚一志氏に師事。ビデオによる動作解析を行いながら改善策を話し合った。重心を低くし、ボールの出所を見えにくくするフォーム改造に04年オフから本格的に着手し、キャンプ中も習得に努めてきた。3年連続で開幕投手となった巨人戦では、5安打無四球完投勝利。27のアウトのうち14アウトが内角への直球とシュート。バットを5本、へし折った。5月は3完投を含む4勝を挙げ、月間MVPに選ばれた。交流戦では、ソフトバンクの杉内と2度投げあい、2度とも勝利。パ・リーグファンにも実力を知らしめた。広島球団史上37年ぶりのファン投票1位投手となり、オールスターにも出場した。甲子園の先発マウンドに立ち2回を無失点に抑えた。
後半に入っても順調に勝ち星を重ね、最多勝も現実を帯びてきた。10月7日、同点の5回に登板し、4回を投げ15勝を挙げ下柳(阪神)に並んだ。中継ぎでの勝利はプロ初だった。それが15勝目を挙げた翌8日、リーグ2位の200回オーバーの投球回にもかかわらず、球団には一部ファンから中継ぎ勝利に対する抗議電話が約20件あった。監督に志願し、最終戦の12日、中4日で先発。野村引退試合という事もあって、負けられない試合だった。しかし10安打を浴び4失点。勝つ事は出来なかった。
2年ぶりの200回超えというフル回転で、11完投、15勝。最多勝に輝き初のタイトル獲得。ベストナイン、ゴールデングラブも獲得し、名実ともに球界を代表するエースとなった。契約更改では球団最高の8500万円アップ。球団初の投手2億円到達となった。
例年ならシーズン終了後、約2ヶ月間完全にオフの期間をつくっていたが、昨季はWBCに照準を合わせ、05年12月からキャッチボールを欠かさなかった。更に2段モーション禁止へ対応するため、フォームの矯正にも取り掛かった。2月24日の12球団センバツとの練習試合に、右手人さし指打撲し、出場辞退。WBCに向けて早めに調整していたが、予想外の離脱となった。それでも開幕戦には間に合い、4年連続の開幕投手は勝ち星こそつかなかったが、6回を無失点に抑え責任を果たす。4月27日の巨人戦(広島)では、チーム一番乗りとなる完投勝利(3安打無四球完封)を挙げた。
開幕から中4〜5日でフル回転した事もあり、交流戦期間中に股関節痛を初めて発症(右肩関節滑膜炎)。シーズン最短となる4回0/3で12安打9失点と屈辱にまみれた。6月から状態は良くなり、7月は先発した4試合全て勝利、続く8月も4勝を挙げ、球団初となる2ヶ月連続MVPに輝く活躍を見せた。しかし9月は強い右ひじ痛に見舞われ登板を回避、10日には登録抹消された。交流期間中での故障と10年間投げ続けてきた蓄積疲労もあった。自己最多の8連勝中で、川上(中日)と最多勝争いを演じる中、手痛い離脱だった。最悪の場合“シーズン絶望”という状況から、順調な回復を続け、地元広島で最終戦となる試合に間に合った。
FA権取得で、移籍か残留か揺れ動く心境の中、地元広島の最終戦に登板。9回2死走者なしで“黒田”の名前が告げられると万雷の拍手が起きる。エースが右ひじ炎症からの復帰登板を果たした。11月6日、広島市内のホテルで会見を開き、FA権を行使せず、球団に残ることを発表。出来高を含め4年総額12億円の複数年契約を正式に結んだ。07年オフ以降容認されたメジャー移籍の可能性はあるものの、引退するまで国内の他球団移籍は完全否定。FA権を行使しなかった最大の要因は、他ならぬファンの存在だった。「逆指名で入団したカープには深い愛情がある。」引退するまで国内の他チームへ移籍しないことも断言した。「育ててもらったチームに他球団のユニホームを着て目いっぱい投げることは考えられない。この先国内他球団に移籍することはない」国内なら“生涯カープ”は決めた。
終盤の故障で13勝に終わったが、防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得した。規定投球回数を到達し、防御率1点台の投手は、88、89年の大野以来2人目という快挙。また6月7日から、13試合連続先発で成功し、現在も継続中だ。得点圏以外の被安打率は.252だが、得点圏にランナーを置くと.204と抑えている。この点を見ても、例え走者を出しても、点を与えない投球術ができていると言える。入団5年間は目立つ成績は残していないが、年々進化してきており、特にここ2年間は連続でタイトルを獲得。“広島残留宣言”で男気を上げ、今では広島の宝のみならず、名実共に球界を代表する選手となった。
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