高校時代は捕手で4番を打ち、大家(MLB)とバッテリーを組む。93年夏に府大会準優勝。京都産大では4年春季ベストナイン。関西大学No.1捕手。遠投110mの強肩にスローイングもいい。50m6.3秒の俊足で捕手としては以外と速い。
フットワークのよいキャッチングと冷静なリード、そしてなにより強肩が売り物。実際、他球団のスコアラー陣はその能力を高く買う。課題は打撃。一時は打撃を伸ばす為の外野転向案もあった。リードは、投手の事をよく確認し調子を分析し、投手の持っている球種をフルに使って打者の思惑を絞らせない特徴を持つ。04年の西山秀二、瀬戸輝信の退団でチーム最年長捕手となる。
入団当初は、高卒ながら1年目から1軍で起用されるも、打撃力が非力な為、1軍定着にはならなかった。
03年、ファームでは6月まで10連続盗塁阻止を含み実に7割を超える盗塁阻止率で、何度もチームを救った。 しかし7月の紅白戦で左手甲に死球を受けて骨折。復活まで2ヶ月を要した。
入団7年目の04年、開幕1軍入りを果たした。だが一度の出番も与えられないまま4月7日には登録を外れた。その直後から木下監督、長内2軍打撃コーチによる打撃改造指導が始まった。その指導が実りファームでは入団以来初の3割を打ち課題の打撃も向上した。1軍では01年の35試合に次ぐ24試合に出場。8月7日はプロ初本塁打。20日には延長12回にサヨナラヒットを放つ。
05年のオープン戦、石原が骨折し全治3カ月と診断され、開幕絶望となった。正捕手不在のピンチに周囲は動揺した。倉は「自分がやるしかない」と周囲の不安を覆す意気込みをみせた。
初の開幕戦先発マスクをかぶったが、開幕から2ヶ月間で、打率.152。投手並みのバッティングだった。そして5月24日、石原の復帰により、あっさりと正捕手の座を明け渡してしまった。8月に入ると夏バテから投手陣が崩れだし、中旬から倉が先発に復帰した。復帰後は、打率.271と向上した。速球に力負けしなくなったことを打球の勢いで証明した。内田コーチの指導、本人の努力はもちろん、実戦で使い続けたことが、何より成長のきっかけになったことは間違いない。
チーム最多の91試合に先発マスクをかぶり、自己最多の109試合に出場。そしてプロ入り初めて一年を通じて1軍に在籍した。守備面では、自慢の強気のリードを持ってしても、投手崩壊に歯止めをかける事は出来なかったが、盗塁阻止率は44.0%と両リーグトップ。広島の捕手で阻止率1位に輝いた選手は、過去12年間までさかのぼっても倉ただ一人。年俸は950万円から、ほぼ倍の2000万円となった。
2年連続開幕戦先発マスクをかぶったが、石原との併用の為、ほぼ交互に出場。8月5日の阪神戦(松山)では9回ウィリアムスからセンターへヒットを放ち、遅まきながらプロ入り初の猛打賞を達成。9月8日の中日戦(広島)では、7-7の延長10回一死一二塁から試合を決定付けるサヨナラヒットも放った。先発出場が71試合と同じなら、打席数もほぼ同じだ。課題の打撃は打率.239と、05年の.210より向上し、本塁打も5本放った。入団から打撃がウィークポイントとされているが、徐々に向上している。
打撃、守備率、盗塁阻止率、一試合平均の失点数で石原に全て上回ったが、他球団の捕手と比べれば低レベルな争い。決定的な強みが無い為、正捕手確定とはならなかった。しかし、ある程度の貢献を果たしたことで、3年連続の年俸アップ。05年に石原と2000万円以上離れていた年俸も、今季は2400万円で同じになった。
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