広陵高時代から注目を集め、一度ドラフトの候補に上がったが、その時は指名されなかった。NKKでは97年から3年連続都市対抗に出場。99年は三菱自動車水島の補強選手で出場し、ベスト4まで進出。3試合に中継ぎ登板した。社会人3年間の公式戦成績は28試合11勝4敗、防御率4.43。二岡(巨人)と福原(阪神)は広陵高の2年先輩。サイドから140キロ台の直球とキレのある変化球、持ち球は主にカーブ、スライダーで、シンカーも投げる。
入団した1年目は22試合に登板し、新人ながら即戦力として活躍。01年からサイドに転向するも、3年間で7試合の登板に終わり、伸び悩んだ。特に03年は入団以来初めて、1軍登板ゼロに終わる。
04年、1軍でスタートした2月のキャンプ中盤に離脱。「胸郭出口症候群」。鎖骨付近の神経と血管が圧迫されて、肩から指先までがしびれに襲われた。望月トレーナーと話し合ってメスを入れない道を選んだ。最初は1キロの鉄アレイすら持ち上げられない苦境から始まったリハビリ。同トレーナーの激励を受けて筋力強化に励んだ。4月からブルペン投球を再開した。下手投げだった投球フォームも肩・ひじへの負担軽減のため入団当初の上手投げへと戻した。5月終わりに2軍での実戦登板が実現。7月5日には2年ぶりに1軍から声がかかった。昇格直後は失敗が多かったが、9月以降は12試合で失敗はわずか1試合と安定したピッチングを披露。プロ初勝利も挙げ、自己最多の32試合に登板。25回1/3を投げ四死球は8個と少なく、三振は22個を奪う。
05年、プロ入り初の開幕1軍を果たし、自己最多の50試合に登板。夏場に一度だけ2軍に落ちたが、ほぼ一年間通して投げる事が出来た。ワンポイントが多かったとはいえ、1試合1試合ブルペンで肩を作ってスタンバイする事は、大変な事だ。その苦労を思い出すと、こみ上げるものがあったという。
ただ救援成功率は56%と安定していない。原因は2つある。36回で22四死球という制球の悪さ。先頭打者の被安打率.386が悪く、ワンポイントの起用が多い佐竹にとって、致命的欠点だ。始めから全開で勝負して欲しい。
オフには、背番号が「36」から「13」へ変更。社会人時代で三菱自動車水島の補強選手として選ばれ、そのときに着けていた背番号が13番。04年オリックスへ移籍し大活躍した菊地原が、広島時代で着けていた背番号でもある。
昨季、ブラウン監督になり、起用法が変わった。05年までの1回未満の登板は45.9%だったが、06年は18.8%と激減。今まではワンポイント起用が主だったが、1イニングを任される事が増え、時には2イニングを投げることも増えた。先頭打者の被安打率が.386→.276と改善されたが、救援成功率は56%→53.1%と2年連続下降している。しかしながら広島投手陣の中継ぎ陣で、唯一3年連続30試合以上に登板している貴重な左腕。
10月28日の秋季キャンプで左ひじ痛を発症「一時は手術も考えた」という。しかし術後のリハビリなどで復帰まで8ヶ月はかかるため、手術回避を決断した。ブラウン監督はコンディションを最重視するため、プルペンで多くの球数を投げさせないことを明言している。
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